日本統治時代の裁判風景 以前との比較 | 正しい歴史認識を学ぶために
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日本統治時代の裁判風景 以前との比較

19世紀末 海を隔てた日本が上海でのアヘン戦争 イギリスを始めとするいわゆる列強諸国の侵略に危機感をつのらせ明治維新をやってのけたのと違い

19世紀末の朝鮮は本当に悲惨な状態でした

旧態依然とした李王朝に対抗して日本の維新の志士たちのような人もいましたが激しいい弾圧に苦しんでいました
日本は日清戦争を勝ち抜き朝鮮半島の権益を確保します

これはロシアの南下政策に対抗するためでした
ロシアは はるかヨーロッパから中東 東アジア そして極東と南下しようとする先々でイギリスに邪魔されていました
イギリスはロシアが凍結しない港湾を所有することを警戒し常に対抗してきたわけで極東の小さな島国の日本が朝鮮半島をめぐってロシアと対抗してくれることを歓迎し日英同盟締結となります(かなりはしょっていますが)

日露戦争に奇跡的に勝利した日本はその後第一次世界大戦にて戦勝国となり 国際連合の常任理事国となります

そして極東の治安維持の委託を受けました。

李王朝
1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと強い影響を受ける主体が変化するに過ぎないものであったが、1904年の第一次日韓協約で日本人顧問を政府中枢に置くことが義務付けられ、翌1905年第二次日韓協約によって保護国とされて外交権を日本に移行、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管、こうした主権の制限過程を経て1910年8月の韓国併合ニ関スル条約調印によって、最終的に日本に併合され、国家としての李氏朝鮮は終焉を迎えた。

国際条約上のきちんとした取り決めの上での併合であったことがよくわかります

断じて植民地化ではないですよ!!

今日は司法制度改革によってどのように変化がもたらされたかよくわかる写真をアップします


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